三条雲蝶会です。
本成寺 ― つるがやコース
6月1日(土)さわやかなさつき晴れのもと本成寺赤門はより鮮やかに朱で迎えてくれました。
会長のあいさつの後今日のコースの目的についての説明がありました。
雲蝶さん30才代の作品が多く、それも比較的雲蝶さん自身の個性が出やすい小品がここ本成寺にあります。そのキーワードは“粋”ではないかと思います。雲蝶さんの持つ“粋”探しに行きましょう。その粋な雲蝶さんを受け入れた“当時の三条の町”を、“町屋”を訪ねてみましょう。
雲蝶さんの活躍の舞台となる本成寺のこと、雲蝶さんの出生、本成寺に至る経緯は軽く説明する。
本照院です。門の右端を見てください。飛龍ですが内側の飛龍と対になって舞う構図になっています。左にある飛龍も対になって舞う様子は法華経の使者としてこの寺を訪れる人々に功徳を施している。
静明院です。向拜の2本の柱の獅子を見てみましょう。通常は柱の上部中央にある獅子がここではやや外側にあります。しかもその視線が向拜前方3m付近で結びます。琴高仙人の署名といいこころにくい演出に感心してしまいます。上げていただいた仏間での欄間には三日月とヤマブドウを左上から右下まで流した透かし彫りです。何とも素敵な絵を見ているようです。本堂には寺宝の亀の置物がありました。30cmに満たない小品ですが上部の甲羅の亀甲紋は木目を生かし、本物より本物らしく、首のしわも次第に太くなっていていまにも動きそうです。お中のラインや前足、後ろ足の指の数まできっちり彫りあげた観察眼の確かさには感心しました。
お寺の行事等で赤牛は時間が短く、蓮如院のお猿さんには会えませんでした。
雲蝶さんの住んだ町街並みに向います。
与謝野明子の碑に昭和初期の三条商人たちの“粋”を感じながら信濃川、五十嵐川上流へと歩を進めると、それまで橋を架けることが禁じられていましたが明治政府に変るや否や架橋の願い出を行い、やっと『三条橋』をかけたと思ったら明治14年に水害で流されてしまう。それにもめげず再び願い出て明治16年に現『嵐川橋』が、さらに信濃川を走る蒸気船に出資するなど三条商人の心意気に感じつつ上流へ、左手に『本間小路』米穀、呉服の豪商本間家専用の川港に物資を出し入れする道路、宮小路を過ぎると村上、長岡、村松各藩の御用達を務める米穀商廣川家、南蔵小路を下って『つるがや』へ
小粋なショウウエンドウを入口の両側に配し、その上には重々しい板に『つるがや』と書した看板が掲げられている。(板は屋久杉で、書家の荻根沢小班筆)
一歩入ると正面に二畳近くの大凧(三の町標凧「渡辺綱」)が飾られ、良く見るとバック二間ほどの壁面は簾がおろされています。それを通してとなりの部屋のふすまが覗われます。何とも風情ある飾り付けでしょう。
隣りの客間に通されてみると二階はおろか三階まであろうかという空間があり、6,7mもの通し柱が周囲を支えていました。店主のお話ではもうこれだけの柱はないと、お客様の頭の上に人を置いては失礼との心づかいの表れ、同時に東と南からの明かりとりになっているとも、しかし上の障子の張替は命懸け、冬の寒さは並みでないなどの苦労話も。床の間には五月にふさわしい二幅の掛け軸が下がり、初夏の淡いい黄色の花が活けられていました。書画を志す若者が出入りし、その絵や書を買うことで幾ばくかの育みも果たしていました。終りの方で店主は「うちは企業ではなく、家業です。もうけることが目的ではなく、それによって自分が楽しみ、他の人からも楽しんでもらうのです。」と結ばれました。町家に住まうもののもてなしの心、そして町家の持つ文化の発信者の姿を見せていただきました。
帰りは今は本町通りですが雲蝶さんの時代には四の町通りを歩き、雲蝶さんの家のあたりできょう歩いてきた周囲に『つるがや』さんで見たりお聞きした町家を想像していただき、雲蝶さんの家の向かいには右から豪商本間家があり、婿入り先の酒井家、そして御用達の廣川家、後ろは鍛冶町、八幡宮、その後ろに内山家と、まさに江戸の街並みに近いところに住まいしていたことになります。
『つるがや』さんのような町屋が今に残っていることに大きな驚きであると同時に雲蝶さんの作品がそうした風情の中でしっかり醸成されていたとも思われます。
Y.W.
赤門

本照院

「与謝野晶子歌碑」

つるがや