石動神社 「俵藤太の図」 その一 俵藤太の誕生
拝殿左にかかげられた欄間「俵藤太図」があります。筋骨隆々とした勇将そのものといった藤原秀郷が髪飾りもあでやかにかさねを着こなした夫人と対面している構図です。

『御伽草紙』の中の「俵藤太物語」によれば、藤原秀郷という人が所用で近江の国(滋賀県)へ出かけた折、瀬田唐橋に来たところ 人々が多く集まり騒いでいました。話を聞き橋を見ると20丈(約60m)はあろうかと思われる大蛇が横たわっていました。秀郷は対岸へ行く用なので少し戸惑いましたがそこは剛のもの、大蛇をものともしないで渡って行きました。用を済ませ宿に帰って休んでいると、夫人が訪ねてきて「夜な々々三上山から大百足が湖に降りて来て私達をいじめます。その大百足を退治できるのは私の姿をものともせずに渡られた貴方様しかおりません。私はこの湖におります龍神の娘です。どうかお助け下さい。」これを見て見ぬふりをするは末代までの恥と直ちに重籐の弓五人張り関弦をかけて、15束3伏せある3年竹の大矢を3筋手挟んで瀬田をめざした。そしてみごとその大百足を退治しました。その礼として食べても食べても尽きない俵をもらい、“田原(この称は次回に)”から“俵”そして秀郷は藤原家の長男ということ”藤太”といわれ、俵藤太と呼ばれるようになりました。
でも不思議ですね。藤原秀郷ですが錦絵などでは大百足退治の場面や将門の首を打つところ(そこが一番の見せ場)が描かれているのに雲蝶は全く別の場面を迫力いっぱいの藤太としとやかな龍の化身を彫りあげています。皆さんはどう思われますか。是非この「俵藤太図」をご覧ください。
申し込みは 角田道雄 0256-33-1754 (当分の間一組五名以内でお願いいたします)
w。y


『御伽草紙』の中の「俵藤太物語」によれば、藤原秀郷という人が所用で近江の国(滋賀県)へ出かけた折、瀬田唐橋に来たところ 人々が多く集まり騒いでいました。話を聞き橋を見ると20丈(約60m)はあろうかと思われる大蛇が横たわっていました。秀郷は対岸へ行く用なので少し戸惑いましたがそこは剛のもの、大蛇をものともしないで渡って行きました。用を済ませ宿に帰って休んでいると、夫人が訪ねてきて「夜な々々三上山から大百足が湖に降りて来て私達をいじめます。その大百足を退治できるのは私の姿をものともせずに渡られた貴方様しかおりません。私はこの湖におります龍神の娘です。どうかお助け下さい。」これを見て見ぬふりをするは末代までの恥と直ちに重籐の弓五人張り関弦をかけて、15束3伏せある3年竹の大矢を3筋手挟んで瀬田をめざした。そしてみごとその大百足を退治しました。その礼として食べても食べても尽きない俵をもらい、“田原(この称は次回に)”から“俵”そして秀郷は藤原家の長男ということ”藤太”といわれ、俵藤太と呼ばれるようになりました。
でも不思議ですね。藤原秀郷ですが錦絵などでは大百足退治の場面や将門の首を打つところ(そこが一番の見せ場)が描かれているのに雲蝶は全く別の場面を迫力いっぱいの藤太としとやかな龍の化身を彫りあげています。皆さんはどう思われますか。是非この「俵藤太図」をご覧ください。
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